横尾忠則さんの「日本の作家222」展が、京橋の南天子ギャラリーにて開催

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如何わしい画壇等からは距離を置く、我が国の本物の巨匠こと横尾忠則さんの「日本の作家222」展が、京橋の南天子ギャラリーにて開催されている。

http://nantenshi.com/exhibitions/2013-yokoo130805.php

■「日本の作家222」

期間:2013年8月19日(月)~9月14日(土)
10:30am~6:30pm(日祭休廊)
場所:南天子ギャラリー
〒104-0031 東京都中央区京橋3-6-5
TEL: 03-3563-3511 FAX: 03-3535-5648

横尾忠則氏が描いた名だたる222人の物故作家の肖像画が、そう広くないギャラリー内に所狭しと展示されている。

レアリズムと横尾流個性的タッチとが渾然的に一体となったスタイルは、相変わらずに健在である。「時間ですよ」と云う往年のTV番組で初めて横尾忠則さんの作品を目にしてインパクトを受けたのが、つい最近の出来事であったかの如くに、新鮮でピュアな感動が蘇ってくる。

加えて円熟の境地を示すかの如くに肩の力が抜けたというのか、肩肘張らないというのか、間の抜き方というのか、或いは横尾流の融通無碍的筆致とでもいうのであろうか、そんなタッチがとても感動を誘ってしまったのである。

妙にポップ調の原色が似合う吉本隆明さんや、よく見る安部公房さんの独特のグレー的色彩に着色された肖像画に接したときに、先ずは新しい作家を照らすビジョンが写り照っていたのであり、妙に似合っていた。そしてさらには既成的な作家のイメージを革めるビジョンを提示させていたとでも云うべきなのであろう。作家に対するビジョンを累乗化させる試みでもあると云えるのだ。

美術展と連動して同名の作品集「日本の作家222」が、日本経済出版社から出版されるという。見本書なのか、会場で同作品集を手にとってペラポラとベージを捲っていたのだった。オリジナル作品に接した後だったからか、ページ構成やレイアウトが些か厳か過ぎるのに対しての違和感を感じていた。受け取り方は夫々なので、厳かな美術書を批判している訳ではない。高価であるが興味ある方は購入されたし。

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横尾忠則さんのtwitterのツイートが凄い。

ツイッターで横尾忠則さんのツイートが注目を浴びている。先日mimiさんから教えてもらって、おいらもフォローしているのだが、パワフルでウイットに富んだツイート書き込み、なかなかいい味を出しているのである。

「人生なんて錯覚の連続だ。精神を錯覚し、肉体を錯覚し、才能を錯覚だ。人間はリアリティだけでは生きて行けない。にもかかわらず芸術のリアリティを求めようとする自分。それも錯覚だと思えば悲劇も起こらないだろう。」(by tadanoriyokoo 約7時間前のツイート)

横尾さんと云えば、最初にその名前を意識したのが、TVドラマ「時間ですよ」のオープニングに出ていた出演者たちのリアルな似顔絵作家としてである。当時思春期のおいらは、下町の銭湯を舞台にしたそのドラマを観るのがとても楽しみであった。浅田美代子などの人気女優が出演する人情ドラマであり、女性の入浴シーンが毎回登場するので思春期のおいらには刺激的でもあった。そこに強烈なインパクトで横尾さんのアートと遭遇したというわけなのである。

似顔絵作家と意識していたおいらは、その後の横尾さんの活躍には目を瞠ったものである。職人的に洗練されたアートの技法がいつの間にやら、別の次元の横尾ワールドへとワープしていたからである。いち早くCGも手がけていた横尾さんの作品をお借りして、雑誌「ほとけのいのち」の装丁をおいらが手掛けたことがあった。そう想っていたのだが、今その雑誌を探し出してページをめくると「表紙デザイン・イラスト 横尾忠則」とあった。横尾さんのデザインをもとにおいらがDTPのデータ処理を担当したというのが正しかったのだろう。友人の誰かが「横尾さんは、いっちゃっている」などと称したのを耳にしていた。「あの世」「神の世」「来世」等々のイメージを、横尾さんの作品から感じ取っていたのだろうが、おいらは「それとは違うな」と、しみじみ作品をながめるばかりであった。

横尾忠則さんの名前を目にして想うことはそればかりではない。特に高校の後輩で美術評論家の倉林靖氏の「岡本太郎と横尾忠則―モダンと反モダンの逆説 」のことが頭に残っておいらの情念をかきむしっているのだ。詳細は失念したので、この話題については後日改めて取り上げていきたい。