横浜の「ヨコハマトリエンナーレ2011」は温故知新の美術企画展なのか?

現代アートの国際展として3年毎に開催される「横浜トリエンナーレ」。09年に続き今年は第4回目となる今年の展示が8月6日から開催されている。期間は11月6日までと、3カ月間の長い日程をとって開催される、我国における美術の一大ムーブメントだ。いつかは訪れねばという思いを漸く本日は解消することが出来た。とはいっても4カ所でイベント展示されているうちの2カ所を訪れたのであり、まだあと半分の後半戦を控えているのではある。

http://118.151.165.140/archives/index.html

サブタイトルには「OUR MAGIC HOUR 世界はどこまで知ることができるか?」とある。何やら意味深な響きやらが冠されているが、経験から見ていけばこういうものにはほとんどスルーするか無視するか、あるいは邪険にするか、兎に角は真に受けないでおくのが肝心である。聞き流しておくに限る。

そもそもこんなサブタイトルだとかの代物は、キューレーターだかプロデューサーだか、ディレクターだかなんだか知らない人種たちがお遊びで付け足してみたものと相場が決まっている。アートのいろいろを理解しているとさえ云い難い。今回の企画展の総合ディレクターだと云う逢坂恵理子という人のコメントをある雑誌で目にしたが、全くもって要領を得ない。「体験」とか「想像力」とか定番の語彙を絡ませ小中学生に美術の授業を行うくらいのものでしかなかった。まるで自分でも何を解説しているのか判らないだろうポイントがずれていたものであったので、唖然としたものではある。それでも「総合ディレクター」とやらが務まっているのだから日本の美術界はそうとうに没落悪化の一途なのではないかと危惧しているくらいだ。

実際に小中学生は観覧料が無料ということで、多くの小中学生が夏休みの課題をこなすためなのか、ペンや筆記帳等を携えて美術鑑賞を行なっていたのだ。だいたいにおいて現代美術の鑑賞を小中学生に課すということ自体に、現代美術への無理解が根底に在ると思えるのである。

おいらの今回の目当ての一つは、横尾忠則氏の近作を鑑賞することだった。ネットや一部媒体にて作品のコピーには接していたが、実作品に接することが真の鑑賞の第一歩となるが故にその行程が急がれたのだった。ところが生憎、横尾氏の作品は撮影不可という扱いになっていたため撮影取材が不可能となりがっかり至極であったので、感動も半減させられたと云うしか無いのだった。黒いトーンを基調にして、闇の中から浮かび上がるようにして描かれていた街中の風景たちは、想像していた以上に大仰に黒のトーンをまき散らしておりそれなりの迫力満天の作品であった。迫力といつたついでに加えれば、100号かそれ以上の大作も数多く展示されており、此処へ来てこの時代での横尾氏の制作力には目をみはるしかなかった。作品の大きさと作家のパワーとが凄く同次元で感受できたのであり、これはこの時期にとても意義ある美術鑑賞体験だったのだと考えているのだ。

さてそれ以外の作品について。まずは今は亡き過去の「現代美術家」たちの作品への邂逅に対する感動が大きかった。マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、マン・レイ、等々、美術の教科書にも載っている巨匠達の作品を直に目にすることの、衝撃度は大きかったと云うしかない。先述した欧州の作家以外にも、古今東西、砂澤 ビッキ、歌川(一勇斎)国芳、たちの作品への憧憬は凄いものがあった。砂澤 ビッキ、歌川(一勇斎)国芳らについては少々研究の上、改めてコメントしたいと考えている。ただし現在生存中で活躍中という真の現代作家達の作品には、特に何も受け取るべきものを得なかった。国内外を問わずそれは歴としていた。

もしかしたらこの国際美術の展示会は結果的に、「温故知新」ということの再認識をもたらすためのものだったということになるのではないだろうか…。

八王子美術連盟のデッサン会に参加

今年3月の「八王子画廊散歩」に出品したことがきっかけとなり、地元の美術イベント等に参加することが増えてきた。本日は、八王子美術連盟が主催するデッサン会に参加したのだ。

会場は八王子市芸術文化会館、別名「いちょうホール」と呼ばれる4階建てからなる立派な会館。地元作家の作品展をはじめ色々なイベントが目白押しの会場だ。会場となっている最上階の「創作室」は高い天井から天窓が設けられており、天然自然光が室内に行き届いており制作活動の場所としては理想的なつくりである。

改めて基本的なことを述べて云えば、美術制作等の行為は極めて個人的な行為に属するのだが、かといって独立独歩で美術的創作活動の全てが実現するかと問えば、それは不可能であると答えるしかないし、独立独歩の精神と、地元作家・関係者達との交流とは共存させ得るものである。そう考えつつ、最近はよくこうしたイベントに足を運ぶことが増えているのである。

かつておいらは、デッサンやクロッキーと云うものを写実派的制作スタイルの強要とも捉えていたことがあり、美術学生の頃には出来るだけに、デッサン授業と云ったものには敬遠したがっていたものだ。だが改めてデッサン会等にてデッサンやクロッキーを行っていくことにより、個的な独立独歩的限界を拓いていくごときものであることを認識しているのだ。

彫刻家・佐藤忠良氏のアトリエを訪ねたある人物は、彼の描きかけのスケッチブックに興味を覚えてそのスケッチブックを譲って欲しいと頼んだところ、「舞台裏を見られるようで、それは勘弁してくれ」という答えだった。代わりに何も描かれていないスケッチブックを貰い受け、その後は大切な宝物にしている。つまりはそのくらいに、制作者は「舞台裏」を表に出したがらないということ。確かにこの思いの基本的心情は強く理解でき得るところだ。

だからと云う訳でもないが、おいらもデッサン会での描画等については写真に撮ってアップすることは控えることにした。いずれネットギャラリーやリアルギャラリーでの個展等では昇華した作品としてアップさせたいと考えているところなのです。

パウル・クレーの「子供の領分」と谷川俊太郎の「選ばれた場所」

新潟・福島を襲った豪雨の影響で昨夜から激しい雨が続いていたので、本日は外出することも避けて、アクリル画の制作に没頭していたのだ。2〜3年前から続いている制作意欲を何かのかたちにしたいと考えているのだが、昨年初夏頃のチャンスを逃して以来、具体的な道筋は見えてこない。かといって受動的態度で時を過ごすことも出来ないので、日頃の制作活動の時間は、たとえ少々なりともとるようにしている。

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夕刻を過ぎて雨も上がり、街に出て駅前の古書店を覗いていると、パウル・クレーの「子供の領分」という画集が目に付き衝動的に購入した。1997年に「ニューオータニ美術館」というところで開催されたパウル・クレー展で頒布された展覧会の図録であるようだ。

本年開催されたクレーの「おわらないアトリエ」展の出品作品とはまた違った傾向の作品が収められており、つまりは幼児画的パウル・クレー作品とその創造の背景にスポットが当てられ纏められており、至極興趣をそそられているところだ。幼き時の制作スタイルを常に踏襲しながら、名声を博した後も常に幼児の目線を制作の根本に据えていたクレー師の偉大さは図録を一瞥するだけで漂ってきており、その創造の原点の逞しい息遣いを感じ取らざるを得ないのである。

この図録には谷川俊太郎さんの「選ばれた場所」というポエムが収められている。

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選ばれた場所
谷川俊太郎
そこへゆこうとして
ことばはつまずき
ことばをおいこそうとして
たましいはあえぎ
けれどそのたましいのさきに
かすかなともしびのようなものがみえる
そこへゆこうとして
ゆめはばくはつし
ゆめをつらぬこうとして
くらやみはかがやき
けれどそのくらやみのさきに
まだおおきなあなのようなものがみえる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夢は爆発し、暗闇は輝き、暗闇の先に大きな穴の様なものが…とうたっている、その俊太郎さんの思いは、今のこの時代における最も今日的な課題に立ち向かっている詩人の魂の言葉であろう。

町田康氏の新著「ゴランノスポン」

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一部ではカリスマ的な人気を誇るパンク小説家、町田康氏の新著「ゴランノスポン」を読了した。7つの小・中編による作品集で、表紙カバーにはこれまたカリスマ的アーティスト、奈良美智氏の新作「Atomkraft Baby」が採用されており、至極目を惹かれることとなっていた。この表紙によって購入を決めたと云っても良いくらいだ。

表題作「ゴランノスポン」は雑誌「群像」2006年10月号にて「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」として発表されたものを改題してある。タイトルだけ見たら何を意味しているか見当もつかない様な可笑しなタイトルだが、かつての「群像」での作品名を知り、漸くその意味するところの合点がいったのだった。なった訳だが作者のほうは何故だか知らぬが、一般人には韜晦の至りかのごとくのチンプンカンプンな表題に変えて、敢えてその「意味の無さ、希薄さ」を表出させて愉しんでみたのではないかと睨んでみたところだ。こんな表題作に出来るのがパンク作家としての面目躍如といったところだろう。ご覧の様にスポンと落ちる。落ちます、落とします。スポンという擬態の音…。底を見せぬ闇の中へと連れ去って行ってしまいそうな、厳粛かつ滑稽な擬態の音だ。天使か悪魔かは知らぬが大きく両手を広げて手招いているかのようである。

少し前までは独特なボキャブラリと俗的世界の話題を操るパンク兄ちゃん、過剰な才能を持て余している一人よがりの空回り的存在、的な評価を抱いていた町田氏だったが、色々とこの世間とやらに対して挑発する様は勇ましくもあり、可能性をも伝えて来るものがある。

ある種の三文小説の落ちとも変わらないプロットやそうぞうしいばかりの展開やらには辟易していたが、つまりは、小説一つ一つの評価は、あまり点数を付けにくいのだが、読み終わってみればそれらを含めて現代作家たる才能を撒き散らしているということなのだろう。

谷川俊太郎「黄金の魚」の詩を松たか子が朗読

昨日あるきっかけで思い出した谷川俊太郎先生の「クレーの絵本」を押入れから探し出して見ているところだ。1995年10月初版発行(おいらの蔵書は99年発行の第12刷)、講談社刊、定価1456円という名著だ。

パウル・クレーの絵画作品に触発されたという俊太郎さんが、自由闊達な詩をつくって、時代を超えて両者がコラボレートを行ったという形態をとって発行されている。安易なコラボ企画本とは一線も二線も画した立派な企画本となっている。云うまでも無いが、おいらの愛読書の中でもトップクラスの一冊である。

表紙画にも採用されているのが「黄金の魚」。簡易な言葉から紡がれた詩の内容には感動の雨霰の心情を禁じ得ない。

―――――以下引用―――――――――――――――
黄金の魚
おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
―――――引用終了―――――――――――――――

ところで3.11の東北大震災への応援サイトにて、この谷川俊太郎さんの「黄金の魚」の詩が、松たか子さんによる朗読によって公開されているということを知ったのだ。

http://youtu.be/DAv4tFuZl_4

松さんの朗読は凛として清々しく、名詩の存在を重層的に拡散させているかのようだ。丁度、Twitterにおけるリツイートの様だと云えば良いだろうか。とても素直な松たか子さんの声質、仕種が、名詩の魂をビデオメッセージとして拡散させることに強力なエネルギーを得たかのようなのだ。

そしてパウル・クレー、谷川俊太郎、松たか子といった、ジャンルも世代も違うアーティストが本来の意味での「コラボレーション」を実現している。じっくりと松たか子さんの言葉に聞き入っていると、東北震災地の復興にも希望が持てるのではないかと思う。

「棟方志功記念館」を訪問〔3〕「板画」に込めた天才の技

棟方志功さんが自分の作品ジャンルについて「版画」と呼ばれるのを嫌い、自ら「板画」であると主張していたエピソードは有名な話だ。

木材としての年輪や引っかき傷、撓み、汚れ、等々の具材としての「板」の存在感を強烈にアピールしながら、棟方芸術は作り上げられてきた。

コピー作品としての「版画」という、ネガティブなイメージはそこになく、ひたすら木材を相手に自らの世界を描き続けてきた棟方芸術の痕跡を、我々は辿るばかりなのだ。

予め墨で着色した木材に顔を数センチの距離にまで近づけて、彫刻刀の一撃一撃が投下されていく。その制作の姿はまるで、石工が固い石材に対して力いっぱいに斧をぶつけていく仕種にも似ており、素材と作家との格闘というプリミティブな芸術行為そのものを、鮮やかに浮かび上がらせていくのである。

版画がコピー芸術だと揶揄されたことを跳ね飛ばすに充分な、棟方芸術の格闘の姿がそこには存在していたのである。

「棟方志功記念館」を訪問〔2〕凡庸な保守主義とは一線を画して築かれた棟方志功の世界観

棟方志功は生涯において膨大な量の作品を残している。そう広くはない「棟方志功記念館」の「躍動する生命」企画展にて展示されていたのは、同記念館が所有する膨大なコレクションの中のほんの一部だが、代表作は少なからず含まれていた。

「釈迦十大弟子」は釈迦の弟子達の姿を彼独特のデフォルメ的手法で骨太に描いたものだ。夫々の弟子達の表情から見えるのは、卑近な日常で接する人間達の顔々との特別な相違を見出すことは難しい。何故ならば弟子達の個性は人間存在の様々なる個性と類似しているからであり、これこそが棟方志功流なのだ。

「湧然する女者達々」は、ふくよかな女神達であるが、日常一般で接する女性達の息吹も漂わせている。すなわち神話の女神達のようでありつつ、日常性からたどった女の理想像なのかもしれない。触りたい、抱きしめたい、そして包み込まれたいといった、云わば男の下心にも通じる世界を棟方志功さんは描き切っているのである。

彼の作品にて描かれる「天妃」或いは古事記の神話からとった女神像は神話を題材にしながらも、それに埋没することなく棟方流を貫いている。「女者」という題材が棟方世界を貫く特別なテーマであったのだが、そのテーマの追求の手段として、神話なり仏教故事なりを借用している。

すなわち棟方さんは、よくある凡庸な保守主義者のように神話や故事に埋没して嬉々とする俗物たちとは一線を画して、彼自身の作品世界の構築に努めたのであった。これこそが彼自身の世界観をこ決定付けている。こんな姿勢こそが、天晴の賞賛に値するものなのであり、我々現代人が見習っていくべきものなのである。

東北青森の「棟方志功記念館」を訪問

福島、宮城、岩手を通り越して、東北の青森に来ている。

東北地方はまさに心の故郷であり、何度も足を運んでいるが、今年は大震災後という特別な状況もありなかなか例年通りの観光旅行、慰安旅行の気分にはならなかったが、かといって東北が遠く感じてしまいつつあるのをそのままやり過ごすこともままならずに、とにかく行ってみようと新幹線に飛び乗っていたのである。

初めて降車した「新青森」の駅舎はモダンでありつつ、青森の風景に馴染んでいた。少し前までこの場所の駅舎が無人駅だったということを聞きつつ、新しい玄関口が開かれたことを嬉しく感じた。「青森駅」とはまた違った展開をこれから見せてくれていくことになるのだろう。

さて最初に訪れたのは「棟方志功記念館」だった。棟方志功さんの作品には、都内や青森県内の様々な場所で接することはあったが、一堂に会して鑑賞するという体験はなかったように思う。大変尊敬しているアーティストに対しては、些か礼儀を欠いていたと、改めて思った。

現在の企画展は「躍動する生命 棟方志功の眼」と題して開催されている。今のネット環境の悪いここでその詳細を記すのは困難なので、内容その他については帰京してから改めてまとめたいと思っているところだ。

パウル・クレー「おわらないアトリエ」展が開催

東京国立近代美術館で「パウル・クレー おわらないアトリエ」展が開催されている。

http://klee.exhn.jp/index.html

パウル・クレーという名前はおいらにとって、やはり巨きなものである。例えてみれば、初恋や付き合った人とはちょいと違うタイプでいて、ある種の憧れの存在でもあったが自ら積極的にはアプローチすることも無かった。然しながら憧れであることは否定しがたく、いつかきっかけがあったらお付き合いしてみたい、……、等の人と比喩してみたら良いのだろうか?

ともあれこの展覧会の特徴の一つは、作家(クレー)のアトリエを覗き込むような仕掛けがいくつか施されているということ。作家の代表的、本格的な作品群に触れることとあわせて、受け取るべきエモーションは極めて巨きいものがある。これまで発見することのなかっクレーの制作の原点を、いくつか確認することができたのだ。

その第1点は、素描を大切にして制作の基本においていること。鉛筆やコンテ等によるイメージデッサンの第1歩としての素描の工程を、非常に大事な工程として捉えているのだということだ。

クレー独自の技法とされる「油彩転写」では、下書きとして描かれた素描の筆遣いを一段と強調し絵画化させることに成功している。単なる技法の開拓に止まらずに、彼が描いたタブローの中で占める素描的表現、すなわちクレー自らの技法は、極めて稀なる芸術的な高みへと昇華されたものとして受け取ることが可能である。

そして第2点目に感じ取るのは、小品・中品の作品群で満ち足りているということ。大上段に構えるのではない等身大の作品群とでも云おうか。

現代作家は往々にしてハッタリをかまして自らを巨きく見せようとする傾向があるのだが、現代美術家の大御所としてのクレーの慎ましやかなやり口、志向性には却って尊崇の想いを強くする。ハッタリが幅を利かす世の中だからこそ、そんな現代の似非文化との違いが際立っているということでもあろう。

■パウル・クレー おわらないアトリエ
東京国立近代美術館
2011年5月31日~7月31日
東京都千代田区北の丸公園3-1
03-5777-8600

ラーメンのデパート「宮城」で「ファンモン麺」を食する

八王子駅南口を降りて2~3分のところに、八王子出身のミュージシャン「ファンキーモンキーベイビーズ」御用達の「宮城」なるラーメン店がある。

看板には「ラーメンのデパート」というキャッチフレーズが踊っているが、基本は「八王子ラーメン」の店、即ち醤油ベースのスープに玉葱のみじん切りがトッピングされ、スープの表面には熱々の脂が浮いていて、麺は中細のストレート麺、という地元密着の店なのだ。

そんな地元店が、いつの間にやらファンモンの人気で火が付いて、近頃では全国からファンモンのファンが集う聖地と化している。

本日食したのは「ファンモン麺」。基本的八王子ラーメン「宮城ラーメン」をベースに、じっくり煮込んで味付けされた煮卵とナルト、そして濃緑の海草のようなものが載っている。この海草こそが、メンバーモン吉がお気に入りの岩海苔なのだ。ファンモンプロデュースによって生まれたのだ。つまり、「ファンモン麺」とは「ファンモンのファンモンによるファンモンのためのメニュー」だということになる。たしかに岩海苔は八王子ラーメンのスープに良く馴染んでいて美味しいのだから、ファンは口コミネットワークなどを経て、益々ファンモンの味に群がるのだろう。

ファンモンのメンバーたちはよくこの場所で取材を受け、ファンモン麺をアピールしていている。取材者も知らず知らずにファンモン麺をすすることになり、八王子の地元麺類の味を舌に記憶していくことになる。ファンモンは地元愛の心で八王子ラーメンの味わいを全国にアピールしようとしているのかもしれない。八王子の広報担当としては、立派な仕事振りである。

■ラーメンのデパート 宮城
八王子市子安町 4-26-6
電話 0426-45-3858

「アンフォルメルとは何か?」2 特筆されるデュビュッフェの存在感

昨日の「アンフォルメルとは何か?」からの続きである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3767

ブリヂストン美術館での企画展のタイトル「アンフォルメルとは何か?」は、過去の美術史を紐解いて「アンフォルメル絵画」の概念を定義しなおそうという試みがあるようだが、一般的な絵画ファンはもとよりアンフォルメルに傾倒したおいらのような人間にとっても、至極目障りな試みであると云わねばならない。何となれば、それはまさしくアンフォルメル絵画というものを歴史的な事象として刻印する試みに他ならず、つまりはそれが持つ現代芸術的意味合いを否定するものとなるからである。「アンフォルメル芸術」は決して過去に発生し過去に閉じたムーブメントなのではなかったのてである。

そもそも「アンフォルメル絵画」の名付親は、美術批評家のミシェル・タピエだとされている。日本語で「不定形なもの」を意味するその言葉は、フランスの前衛芸術運動の中での特別な意味と価値とを有するものとなっていた。タピエが先駆者として認めていたのが、ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエ、ヴォルスの3人である。第二次大戦後の混乱期に活動を行っていた3人の作品は、当時の画壇は彼らを黙殺した。新しい動きが根源的であればあるほど保守的な画壇は拒否反応を見せるのだろう。彼らをバックアップしていたタピエの存在は、まさに世界の美術史に於いて特別な意味を付与されるといってもいいだろう。

ところがタピエは、この「アンフォルメル」といった珠玉の概念を拡散しすぎてしまったようだ。猫も杓子も、現代芸術、現代美術といえば、アンフォルメル風なものとして流通させてしまったのである。功罪相半ばする彼への評価は、まさしくこのことによっていると考えてよいだろう。ジャクソン・ポロックの作品までもをアンフォルメル芸術とするのは、批評家の見識さえ疑われて当然である。日本の同展覧会の出品作品もまた拡散した「アンフォルメル風な」作品が幅を利かせているのをみるのは、些か耐えがたい思いさえするのだ。

展覧会場では「ピエール・スーラージュへの6つの質問」というビデオが流されていた。そこでスーラージュは、現代芸術における極めてポイントとなる言葉を語っていたので紹介しておきたい。

「…この言葉(アンフォルメル)は、感じがいいと思います。アメリカ人が使う“抽象的表現主義”より、ずっといい言葉だ。」

「幻視は芸術ではありません。芸術は存在です。私はそれを発見しました」

「アンフォルメルとは何か?」1 ケンキョウフカイ ―ジャン・デュビュッフェ私論―

ブリヂストン美術館では「アンフォルメルとは何か?」という企画展が開催されている。かつて若き時代においらの制作活動に甚大な影響を与えたジャン・デュビュッフェさんの作品が展示されていると知り、足を運んだのでした。

■ブリヂストン美術館
東京都中央区京橋1-10-1
会期:4月29日~7月6日

懐かしさと親しさとがこみ上げて来るような邂逅を経た後に感じたのは、歴史的な事象にまとめられてしまったのかと云うある種残念な思いであった。学生時代にある文集に寄稿した一文を見つけ、云十年ぶりに過去の自稿に触れていた。少々長くなるが、再掲してみる。

ケンキョウフカイ ―ジャン・デュビュッフェ私論―

今日、聖なるものは公言されえない。聖なるものは今や無言なのだ。この世界は内的で沈黙した、いわば否定的な変容しか知らない。それについて私が語ることはできる。しかし、それは決定的な沈黙について語ることだ。
ジョルジュ・バタイユ
「沈黙の絵画(マネ論)」

からみあっている生と死とを引き裂き決然とそのどちらかを捨て去ることによって、もはや生きてもいなければ死んでもいないものになってしまった我々は、はじめて歌うことをゆるされる。生涯を賭けて、ただひとつの歌を――それは、はたして愚劣なことであろうか。
花田清輝
「歌――ジョット ゴッホ・ゴーガン」

現代芸術、殊に現代美術といったものに対した時のとまどい――あるときはそれに極端に主知的・形式的な理念を施すことに急なのを見るあまりに引き起こされると思われる離反への誘ない、ある時は単に近代的な創造理念の名残り、その継承でしかないことから来る嫌厭――の只中にいて、一部の現代作家なりの言葉を見つけ出して、ふと水を得た水槽の魚をそばに眺めている心持ちになることがある。換言すればこれは一種の安堵であるに違いない。なんともお粗末な安堵である。何となれば、およそそこには、対立物の闘争――流動し飛躍していく生、すなわちロマン主義的なものと、固定し拘束していく生、すなわち古典的なものとの闘争を、対立のまま統一しようとする花田清輝流の弁証法的な意志が見られないからというばかりでなく、バタイユのいういわゆる至高の瞬間を沈黙の中に於いて渇望する意志もまた欠けているからではあるが――とはいえども筆者(に限らず)は筆者自身がそこにとっぷりと漬かった存在であるという理由から、すこぶる現実的な地盤、観点に立ってのみものを云っているわけではなく、ある時はモハメド・アリのようにして蝶のように舞い蜂のように刺すこともまた無縁である訳ではないのだ。それだからこそゴッホは自らの片耳を切り落としながらも高らかな生の歌を歌い、ゴーギャンはまた死の歌を歌い、マネは不安定で、ためらいがちで、悶々とし、絶えず疑惑の中で引き裂かれながらも、彼自身と他の者たちを解放されるべき新しい形式の世界を求めていたのである。だからこそ筆者もまたここで、ジャン・デュビュッフェについて書こうとしているのである。

鉛白、パテ、砂、小石、コールタール、ワニス、石膏、シッカチーフ、石炭、粉、麻紐、鏡や色ガラスの破片、ヂュコ塗料、等々の物質自体の存在感を打ち出すことによって、描かれる対象の存在感を増加させる、そんなスタイルのデュビュッフェの制作が開始されたのが、1946年「ミロポリュス、マガダム商会、厚盛り」展での人物画からであったろうか。ともあれ一見して行為の喧鬱さが立ち現れてくるようなそれらのタブローも、おしなべて云えば視覚、聴覚、嗅覚、味覚らの働きからくる要素が渾然と一体化されたものであるといってよい。一旦分離された要素が素材との格闘の中で以前にも増した暴力的な力によって織り合わされていく。とにかく混ぜこぜにされるのである。

デュビュッフェの作品世界は明らかに「聖性」と呼び得るもののカテゴリーには属さない。それはあるいは、遥か高みから来る視線からの「逆照射」として一段とランク落ちされた日常的営みの姿だといえるかもしれない。そしてその姿は、画家の視線が移動、鳴動を繰り返すたびにいや増す激烈さによって混沌を醸し出すのだ。デュビュッフェの制作現場は云わば闘技場にも似ている。

ところで「内的で、沈黙した、いわば否定的な変容」をこうむった存在、すなわち「決定的な沈黙」を内に持つ存在、それこそが今度は口を開く番である。主体がそれについて語るというのではなく、「それ」じたいが口を開くのが待たれていた。すなわち闘技場こそが開かれねばならないし、既にデュビュッフェによって開かれていると見えるのだ。

自らの手製の鍵を持ち出してきて、それで沈黙の扉を強引にこじ開けようとしたのがデュビュッフェである。彼自身が云うようにその鍵は「不快さ」と呼ぶべきものであった。うっかりした染み、粗野な不手際、明らかにうそで非現実的なフォルム、出来も調子も悪い色、これらの「不快さ」に彼は固執した。何故か? 彼自身の説明を聞こう。

「…なぜなら、実際には、それがタブローのなかに画家の手をはっきりと存在させるからである。それが客観的なものの支配するのを妨げ、事物があまりに具体化されるのを阻止する。この不快さが、よび起こされた事物と、よび起す画家との間を両方に流れる一種の流れをなし、二つの極はそれによって強烈になるのだ。」

沈黙したはずの事物と画家、この両者が、おそらくは魔術の働きにも似た反応を惹き起こすのだ。それこそは、画家の視線が移動、鳴動を繰り返すたびにいや増す激烈さによって混沌を醸し出す闘技場であるかのようである。

自己の作品「地質と土壌―心的風景」のシリーズを語ってデュビュッフェは云う。

「風景が、現実の場所や自然の本当のマチエールを思わせるというよりも、むしろ、たとえばくたびれた魔術師のおかげで流産あるいは未完成に終ったある種の創造作用を思わせるような奇態な様子を示したのだ。」

この少しくおどけた類の比喩で云い表された言葉も、あの頭のハゲあがった、目をギョロつかせたデュビュッフェの相貌を思い起こせば納得がいくはずだ。創造者といえども、精一杯の行為にうつつをぬかせばくたびれるのであり、くたびれて当たり前なのであり、妊娠した女性がたとえ魔術師だったとしても、くたびれるほどのことをすれば流産するのがおちなのだ。そう見てくれば、デュビュッフェの描く人物像のどれをとっても魔術師と云えなくないし、それは同時に魔術によって変容させられた大衆というもののイメージを成すものなのである。あるがままの大衆であると同時に彼らは既に饒舌である。

デュビュッフェは大衆について語って云う。

「シャブィルの床屋の連中や消防夫や肉屋や郵便屋が話しているのを見ると、連中がたいへん板についているように感じた。わたしよりもはるかにうまくやっているようだし、その話しぶりには、うらやましいような喜びと自信があった。とりとめもないかれらの会話の方がはるかに、活気と奇抜さと創意が、つまり趣きがあった。いってみれば芸術があった。」

大衆の中に「芸術」を視ようとする思潮は新しいものでもなんでもない。だがデュビュッフェの特異な点は、彼自身が身体から魂から何かまで身の回りにあるもの全てを身につけて、そこに身を挺していたと云うことだろう。もはや逃げ場所は無いのである。

「歌う」ことの不可能を知りながら、なおかつ歌わずにいられないのは彼である。からみあっている生と死とを引き裂きながらも、決然とそのどちらかを捨て去ることはしなかった。見渡せばまわり一面、石、砂、石膏、コールタールの世界にいて、決然と「生」を、あるいは「死」を捨て去ったところで何になろう。時がたって積もり積もって山となるか、砕け散って粉々となるか、そのことを誰が知ろう。積もり積もった「死」の堆積をくだいて、粉々となった「生」の砂礫にセメントを垂らし込みながら、彼は意気盛んに行為する。その「健強さ」。

「健強さ」「不快さ」と合わせて「ケンキョウフカイ(牽強付会)」と洒落たついでにもう一言。デュビュッフェのタブローこそは「覚醒めた皮膚(※2)」の暗喩にかなうものではないか。「大草原の物語」を視よう。原型質細胞を想起させる輪郭を持った一つ一つのまとまりが、あるいは浮遊し、固着し、飛び回り、せめぎあっても見える。そしてその只中にようやくそれと分かる程の目、口、耳、鼻が暗示され、浮かび上がるように目に映るのは7個の生命体であろうか? 目は事物の輪郭を識別すると云うよりも画家とそして鑑賞者の視線に拮抗するかのようにこちらからの思い入れを峻拒しているようだ。口は果てしなく喋々しており、くたびれたその時には我が国の詩人の言葉に首肯する耳をも示すのだろう。 ――「言葉だけの希望が無い方がいい。言葉だけの絶望が無い方がいいように」(吉本隆明氏の言葉より)

※ この稿続く

※2 当時の芸術祭のメインテーマ

川崎市生田緑地内「岡本太郎美術館」の「人間・岡本太郎」展を鑑賞

本日向かっていたのは、小田急線の「向ヶ丘遊園」駅。目指したのは遊園地ではなく「岡本太郎美術館」である。そこで太郎さんの企画展が開催されているのだ。

今年生誕100周年を迎えた岡本太郎さんの特別展はといえば、千代田区の「東京国立近代美術館」にて大々的に開催されており、代表作品というものはほとんどがそちらの会場にて展示使用中なのだが、会場のスケールは川崎の美術館が引けをとらないことに加え、入館者もそれほど多くはない為、じっくりと岡本太郎というアーティスト作品に接するには良い機会である。

会場は常設展と企画展の2本立て。中でも注目したのが企画展の「人間・岡本太郎」展だった。「どうしても本職というなら、人間です。」というキャッチコピーさながら、生々しい太郎さんの私的な面にスポットが当てられていた。

例えば太郎さんが登場する当時の「プレイボーイ」誌は数十冊にも及び、若者メディアへの影響力の甚大さを示していたし、太郎さんの作品制作の姿をビデオで収めた映像では、制作時の呼吸音や脈拍音までが伝わってくるようなリアリティーを伝えていたのである。ファンならずとも芸術に関わる全ての人間にとって興味深い光景が示されていたのだ。

会場には「建築・デザイン」「写真」「思想」「文学」「美術」「漫画・イラスト」「映画」「一平・かの子」「政治・芸能・スポーツ」といったテーマ毎の小部屋が設けられていた。フランスで活動していた当時のバタイユとの交流は、帰国してからの太郎さんの制作に甚大な影響を与えていたが、それのみならず、ミルチャ・エリアーデの思想が彼にもたらした影響についても、その根拠とともに提示されていた。おいらにとっても新しい発見であったことを付け加えておきたい。

太郎さんの作品世界にとって必須の概念である「シャーマニズム」「イメージとシンボル」といったものが、エリアーデの影響下にあったのだろうという推論から導き出された新たな岡本太郎像がそこにはあった。

生誕100周年行事はこれからもまだまだ続いていく。東北岩手の「鬼剣舞」と太郎さんとの関わりなどにはとても関心を抱いているところだ。これからも機会がある毎に、岡本太郎さんに注目レポートなどしていきたいと考えているところなのだ。

■川崎市岡本太郎美術館
川崎市多摩区枡形7-1-5
TEL 044-900-9898
http://www.taromuseum.jp

萩原朔太郎さんの「地面の底の病気の顔」自筆原稿を鑑賞

先日、前橋の「前橋文学館」を訪れたところ、萩原朔太郎さんの代表的作品「地面の底の病気の顔」のとても貴重な自筆原稿に接することができたのでした。

「地面の底の病気の顔」という詩は、詩集「月に吠える」の巻頭にまとめられた朔太郎さんの代表的な詩作品である。ところがこの作品の自筆原稿が長らくアメリカ人のもとにあり目にすることができなかったのだが、このほど所有者から「前橋文学館」へ返納されたというニュースを耳にして、この文学館を訪れてみたのだった。自筆原稿としておさめられているのは下記のようなものなり。

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地面の底に顔があらわれ

さびしい病人の顔があらわれ。

地面の底のくらやみで

うらうら草の茎が萌えそめ

鼠の巣が萌えそめ

巣にこんがらかっている

かずしれぬ髪の毛がふるえ出し

冬至のころの

さびしい病気の地面から

ほそい青竹の根が生えそめ

生えそめ

それがじつにあわれぶかくみえ

けぶれるごとくに視え

じつに、じつに、あわれぶかげに視え

地面の底のくらやみに

さみしい病人の顔があらわれ。

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この詩は、国語の教科書にも載っている有名な「竹」のベースともなっている名詩でもあり、こんな朔太郎さんの代表的な詩の自筆がアメリカ人の手に渡っていたとは至極残念なことでもあったが、今ここにきて帰国できたということを喜びたい気分である。

自筆原稿をながめれば、保存状態の悪さであろう、その用紙は黄茶色に変色しており、ペンの跡をたどる筆跡も、あまり鮮明には見て取ることができない。隣のブースに展示されていた「地面の底の病気の顔」後半部の自筆原稿の現物に比較したならばそれは明白であった。

ところでこの「地面の底の病気の顔」という詩の原型は、北原白秋が主宰していた機関紙の「地上巡礼」の第二号にて発表されており、その原型となった詩篇は多少のところで異なっている。例えば最後の3行の詩には、朔太郎さんの本名が詩篇に反映されており、それだけ個人的な思いが反映されていると感じ取れるのである。

ここではそんな「地面の底の病気の顔」の元詩の最後の3行を締めくくりとして紹介しておこう。

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地面の底のくらやみに

白い朔太郎の顔があらはれ

さびしい病気の顔があらはれ

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■前橋文学館
群馬県前橋市千代田町三丁目12-10
TEL 027-235-8011
休日:月曜日

http:www15.wind.ne.jp/~mae-bun/

斉藤和義の「ずっとウソだった」に拍手を送りたい

近頃はどのマスコミを開いても「頑張ろう、ニッポン」のオンパレードが続いている。別段そのことに意義を唱えるつもりもないが、これを思考停止と呼ばずして何と呼ぼうか。自粛ムードが高じて社会全体の思考停止状態が続いていくとなれば、由々しき状況であると云わねばならない。

そんな状況の中で、斉藤和義の「ずっとウソだった」ソングの発表はユニークであり、なおかつ極めて創造的な行為であった。ご存知のヒット曲「ずっと好きだった」の替え歌として歌われ、YouTubeにアップロードされた。その直後からネット上ではこの歌の話題が沸騰していたという。斉藤和義を語る偽者ではないか? いや本人だ! 等々の喧しいやり取りが行われてきた。

そんなこんなの末梢的なやり取りに対しては、斉藤和義本人がUSTREAMの生歌披露で吹っ飛ばした。番組で自らが替え歌を披露したのだから天晴の一言である。オリジナル曲を遥かに上回るインパクトとメッセージ性を有した名曲である。

図らずとも騒動となった状況下にて、可笑しなやり取りがまだあった。ビデオ画像が投稿されたYouTube上にて、その投稿を削除しようとして奔走した人間どもがいた。投稿しては消え、また一般投稿者がアップした投稿ビデオを、さらにまた何者かが削除していた。いわばいたちごっこ状態を生じていたのだ。

その投稿ビデオの削除に関与していたのが誰か? という命題に移るのだが、そんなに難しい問題ではない。斉藤和義が所属するレコード会社、ビクター音楽産業の関係者であろうことは、推察容易なのである。これほどまでに堕落したレコード会社とアーティストたちの関係性については、稿を改めて論じていきたいものだ。

岡本太郎グッズに注目なのだ

全国的なものかどうかはさておいて、東京国立美術館「岡本太郎展」における岡本太郎さん人気は凄まじい勢いを呈しているようだ。会場前に設置された通称「ガチャガチャ」と呼ばれるグッズマシンでは、大勢のマニアが競うように行列を作って、太郎グッズを求めていた。

「岡本太郎アートピースコレクション」と名づけられたそのシリーズは、全部で8種類あり、8種が揃ってコンプリートということになる。どれが出るのか判らないが故に何十回もガチャガチャを続けるマニアが登場する始末なのだ。彫刻作品のミニチュア版レプリカであり、手元に置いておきたいというマニア心を刺激する。

おいらは収集マニアではないのでそこまではしないが、あの顔のグッズはぜひ欲しい。また機会があったらチャレンジしてみるつもりだ。

http://www.kaiyodo.co.jp/taro/index.html

敏子さんあっての岡本太郎だったことを、改めて思う

本年が岡本太郎さんの生誕100周年と云う事情もあり、岡本太郎がおいらにとってのマイブームとなっている。

我が国の美術家たちの中でも太郎さん以外に好きな作家は数多存在しており、青木繁、佐伯祐三、福沢一郎、司修、等々と挙げればきりがないくらいだが、中でも岡本太郎さんくらいにストレートにその生き様に憧憬を抱かされた芸術家は居ないだろう。

上手にマスコミを利用し、操り、ときには道化の役割を担いながらも、彼独自の強烈なメッセージを発し続けた、そんな太郎さんの生き様は、些かも薄れることなく現代にその光彩を放っている。

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本日読んでいたのは「日本の伝統」という一冊。おいらも思春期の頃に熱い思いで読み込んでいた一冊である。元本の「日本の伝統」(光文社刊)の出版が1956年と云うことであり、ゆうに50年以上の月日を過ぎているが、そのメッセージは色褪せることがない。太郎さんが45歳のときの、日本文化全般を扱った名著である。

改めて読み進めるにつれ、言葉の表現力の多彩さ、強烈さ、ユニークさに圧倒させられていた。そしてその陰には、岡本敏子さんというパートナー、実質的な夫人の存在の重みが強く感じられたのである。

敏子さん、旧姓平野敏子さんと太郎さんは、太郎さんが36歳の頃に出会い、それ以来、実質的な妻としての敏子さんの陰日向における活躍があった。太郎さんの難解で突拍子もない言葉の意味を理解しながら、それを一般市民へのわかりやすい言葉として翻訳していく。更にそれのみならず、活き活きとした息遣いが増幅された言葉として、紡ぎだされていたのである。よくある「ゴーストライター」としての仕事を遥かに超えている。まさしく敏子さんあっての岡本太郎のメッセージだったのであった。

余談になるが、何故太郎さんは愛する敏子さんと結婚しなかったのだろうかという疑問が存在している。晩年に敏子さんは太郎さんの「養女」として、岡本籍に入ることになったのだが、何故に妻ではなく養女だったのかという疑問だ。フランスナイズされた「独身主義」を通すためだとか、母親(岡本かの子)の存在が理由であるとかの解説がなされているが、それだけで了解できるとは云いがたいものがある。

仏蘭西滞在時代の太郎さんは相当なプレイボーイであり、ガールフレンドの数はとても多かったという。そして帰国してからの生活はといえば、ガラっと変化してしまったのかもしれない。一人の女性に満足できずにいた太郎さんの姿がイメージされる。

それでも二人は永遠の同士だったのであろう。太郎さんの思いを何倍、何十倍にも増幅させて、敏子さんが言葉を紡いでいく。驚くほど深く強固なパートナーシップであった。

八王子市夢美術館「夢美エンナーレ」展での投票結果発表

以前にこのブログでも触れたが、八王子市夢美術館にて開催された「夢美エンナーレ」展が昨日終了しし、参加者の投票による受賞作品が発表された。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3451

http://www.yumebi.com/acv25.html

小嶋大慶氏の作品「八王子車人形の自画像」が大賞に選ばれた。地元の伝統芸能である人形浄瑠璃の一種である車人形をモチーフにした作品である。本人も人形遣いをするようだ。八王子市内にある「造形大学」の学生だという。こんな地元の伝統をモチーフにした作品が、若い作家によって描かれたと云う事は、この時に初めて知ったのだった。

準大賞は飯塚景氏の「言葉にならないものは沈黙しなさい」と、新出こずえ子氏の「Ancient Blues」の2点。

予め予想していたのだが、これらの作品は、おいらは投票しなかった作品であった。これらの伝統的な作品に対して、おいらは肯定的に投票しようという思いは抱けなかった。

おいらの投票した3点(一人3票の投票が許された)の中で、奨励賞に選ばれていたのが阿山隆之氏の「水牛と鳥」である。1973年生まれと云うことなのでそれほど若くは無い。先日は若いエネルギー云々という評価をしたのが誤りだったのかもしれないと、忸怩たる思いが去来している。

年齢的に若い作家が伝統的なモチーフに埋没しているとともに、そう若くは無い作家が奔放な作風で魅了している。こんなギャップがあったのかと、いま改めて認識を新しくしているところなのである。

岡本太郎さんの青春が投影された「青春ピカソ」

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岡本太郎さんの生誕100年記念の今年、書店のブックフェアにて「青春ピカソ」を購入し、読了した。

「ピカソに挑み、のり超えることがわれわれの直面する課題である。」という、巨大な意志を持って制作活動を行なった太郎さんによる、極めて個人的なピカソ論となっている。「個人的な」という意味は、ピカソを超えたいという太郎さんの切実な思いに加えて、ピカソという愛するべき存在に自分自身のありうべき姿を投影しているからだろう。

太郎さんは生涯に2度ほど、絵の前に立って涙を流したという。その一つが「セザンヌ」であり、もう一つが「ピカソ」だった。そのときの岡本太郎さんが放ったという言葉が凄い。

「ピカソの作品は私とともに創られつつあるのだ。」というのだから。

その後の太郎さんの活動はまさに、ピカソとともにあったのだろう。果たしてピカソを超えることが出来たのかは不明、否定的であるが、太郎さんだからこそ挑んで花開かせた世界がそこにあった。

東京国立近代美術館にて「生誕100年 岡本太郎展」開催中

昨日も述べたように、今年が岡本太郎さんの生誕100周年に当たることから、数々の記念展が企画進行中である。中でも目玉となるのが、東京国立近代美術館にて開催中の「生誕100年 岡本太郎展」である。大地震の影響で一時開催が中断されていたが、3月19日(土)より再開された。

http://taroten100.com/index.html

同展は、プロローグ、エピローグとあわせて9章の展示室によって、それぞれに独立したテーマ性を持たせた展示方法がとられている。岡本氏が生涯にわたって追求したテーマのそれぞれが、それぞれ具体的迫真的な作品群とともに検証されていくわけであり、成程よく練り込まれて企画開催された堂々たる展示会となっている。

おいらが今回の展示会にて特別なインパクトを受けたのが、最初の展示ルーム「ノン」である。そこでは12体の彫刻作品が展示されているのだが、それら彫刻作品がものとしてのもつ存在感、躍動感、呪術性、神秘性、それに加えて岡本氏個人のオリジナリティーが充満しており、岡本ワールドを象徴しているようであった。

岡本太郎さんの数ある作品の中でも、完成度の高さと云えば、彫刻作品がダントツである。もし太郎さんが「ゲイジュツ家」としてではなく「彫刻家」として活動を行なっていたならば、日本国内の評価は変わっていただろうと思われる。太郎さんが忌み嫌った「わび・さび」の文化圏内において、もっと高評価が得られたであろうとともに、数々の文化勲章等をものにしていたことだろう。ここまでは、反語的な意味で書いていることを理解していただきたい。

太郎さんへの評価、関心は高まりこそすれ衰える兆しは無い。喩え世間の評価が衰えたとしても、おいらの評価はうなぎのぼり状態である。今年はとことん、岡本太郎という稀有な存在に拘って、当ブログおよび「みどり企画」関連の活動も続けて行きたいと考えているところなのである。

とりあえず此処では、同展示会の会場の中で岡本作品に出会っていただいて、岡本太郎をあらためて体験することを勧めておきたい。伝説的なモニュメントのレプリカもあり、彼の芸術論が展開された書物の展示もある。岡本ワールドの全貌を体験するにはもってない機会であることは間違いない。

同展示会の出口付近には、太郎さんのメッセージを受け取るというイベントコーナーがあった。ひとり一つずつのメッセージが「太郎の言葉」として提供される。ちなみにおいらが受け取った言葉は、下記のとおりであった。個人的に心を揺り動かされた言葉だったということを記しておこう。
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何でもいい。
見物人ではなく、とにかく
自分でやってみよう。
動いてみよう。
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■生誕100年 岡本太郎展
会場/東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)
会期/~ 5月8日(日)
開館時間/午前10時~午後5時
休館日/月曜日[3月21日、3月28日、4月4日、5月2日は開館]、3月22日(火)※明日は休館です!注意してください