「東郷青児展 女性礼賛」にみる女性観とアカデミズム

八王子市夢美術館では「東郷青児展 女性礼賛」が開催されている。

http://www.yumebi.com/

知人から無料招待券をもらっていたので出かけたのです。東郷青児といえば、かれこれ云十年も昔の高校生の頃、たしか二科展の展覧会場で作品に接して以来の邂逅である。東京の美術大学に入学してからは、東郷青児といえばアカデミズムの象徴のような存在であり、アプリオリに刷り込まれた情報がネックとなり、とても観に行く気分などにはならなかったのだ。基本は今尚変わっていないが、人間が丸くなったのか、戦後画壇の巨人などとも称される彼の原画のタッチをこの目で確かめたいなどという好奇心が、重い一歩を踏み出させたのである。

入場者もまばらな展示会場に入る。最初のブースにはフランスで修行時代の、モンパルナスのエコールド・パリ風の作品群が目に飛び込んでくる。とりわけ興味をそそられたのが「スペインの女優」という作品だ。欧米系の女性はタイプではないが、潤いを帯びて端正な顔立ちが食指をそそるのである。東郷さんとは女性の好みは大分異なるが、共有できる趣向が発見できていささか満足であった。

次に廻ったブースからは、お馴染みの東郷スタイルの作品が壁面を埋め尽くしていた。70年代の女性誌によく見られたスタイルのイラストたちは、東郷さんの影響力がもの凄く強かったのだろうと推測するのだ。美術展のサブタイトルには「大正そして昭和を駆けたモダンボーイ」とある。今でこそイラストレーションのスタイルは百花繚乱の趣きであるが、イラストレーションが商業美術の世界に受け入れられ、浸透していった時代の背景には、東郷青児さんの甚大な影響力が存在していたのである。そのことを本日は確認することが出来たのでありました。

21世紀の時代は再び高田渡さんを追い求めていた。

[高田渡] ブログ村キーワード

昨日24日、NHK教育番組「知る楽」では、高田渡特集の第4回(最終回)が放映された。生涯最後というライブ映像も映し出されていて、とても貴重な映像など面白く視聴したのである。

高田渡さんをテーマにした映画「タカダワタル的」は、おいらも公開すぐに映画館に足を運んだユニークな作品であった。1年間という異例のロングラン上映だったという。渡さんを崇拝する監督の柄本明は、本物のフォークを謳う高田さんの生き様を通じていろいろなことを知らしめたかったと語っていた。古くてかつ新しい高田渡さんの生き様は、若い層にもひたひたと浸透していた。この映画が高田さんの再評価に寄与していたことは特筆される。個人的な思い入れを映画という公共のメディアに載せて知らしめるというやり口は、ほかに知ることが無いくらいである。

生涯を吟遊詩人として旅していた高田さんの最後のツアーは、北海道の白糠町であった。亡くなった最期を記すことになった、ゆかりの地なのだという。その日、悪性の風邪を患い40度の高熱をおしてのライブだったという。何百回聴いていた「生活の柄」だが、最後のライブとて記録された映像は圧巻であった。

「全部が新しいし、凄いんです。響くものは響くんです」となぎら健一がコメントしていた。人間の普遍的な日々の生活を歌にし、疾風怒濤の生涯を駆け抜けた高田さんに乾杯なのである。

映画「人間失格」は、太宰治の名を借りた風俗映画なり

太宰治原作の映画「人間失格」を鑑賞した。けれども「あれ、こんなんだっけ?」 という印象を、映画が終わるまでずっとぬぐえなかった。名作の名を借りてリメイクされた風俗映画と云わざるを得ないのだ。原作の「人間失格」は太宰治の代表作でありしかも彼の思想性が際立った純文学作品である。この側面が映画では、すっぽりと抜け落ちていて甚だ腑に落ちない。原作に太宰治さんの名前を冠しているのだから、もっと真面目に制作してもらいたいたかった。

主役を演じた生田斗真はじめ石原さとみ、坂井真紀、寺島しのぶ、伊勢谷友介らの俳優たちはそれぞれの持ち味を出していて悪くない。問題があるとすれば、脚本と監督の資質である。酒と女と薬に溺れて堕落していくというストーリーはとてもステレオタイプである。原作には居ない中原中也なる詩人まで登場させて、ストーリーをごちゃごちゃにさせていく。戦前昭和の文壇なりを描いたつもりだろうが、風俗を通り抜けて通俗の極みである。猪瀬直樹原作の太宰治映画「ピカレスク」に出てくる中原中也に比べれば実在感は上回っているのだが、そのぶん太宰先生の存在感が薄くなっていることを、脚本家なりはどう考えているのだろう。

ネガティブなことを書いて筆を(キーボードを)置くのは気がひけるので、吾なりにこの映画の見所を書いておこう。まず、石原さとみさんが主人公を誘う笑顔が可愛い。坂井真紀さんの主人公を惑わす仕草が前時代的である。主人公に誘惑されていく室井滋さんの自堕落な様が哀愁をそそる。主人公に身も心も肩入れしていく三田佳子さんが艶かしい。つまりは太宰さんがモデルの主人公を取り巻く、女性たちの有り様が、この風俗映画の物語を潤わせているのである。女優陣の演技は見て損は無いだろう。

受け継がれるべき高田渡さんの語り

高田渡のトリビュートアルバム「石」を聴いている。シンガーソングライター・こうもとあいさんがカバーする「私は私よ」のコケティッシュな高音の歌声が心地よく響いてくる。とてもこまっしゃくれた歌詞なのだが、高田渡さんの稀有な世界観、女性観を覗き聴かせてくれてジーンとくるのだ。かつて何処かのライブ会場で、渡さんが低音を響かせたこの曲を聴いていたはずなのに、どんなうたい方をしていたのか想い出せない。けれどとても懐かしく響くのである。こういう現象をデジャヴとでも呼ぶのだろうか。

高田渡の後継者を自任するなぎらけんいちは、例えば「生活の柄」を歌わせたら自分の方が上手いのだが、どうしても渡さんには敵わないということを語っている。渡さんの持ち味は「語り」の持ち味に凝縮されている。渡さんの「語り」はそれくらい人を魅了する力を持っているのだ。

研ぎ澄まされた音楽世界に身を置きつつ、全国を放浪行脚して大勢の高田信者を増やしていた彼はまさに、放浪詩人に値するだろう。TV界や芸能産業などから自ら距離をとりつつ、全国各地でのライブ廻りを続けていた渡さんだが、各会場で接した人々のみが受け取ることができた何かが、渡さんの語りの中にはぎゅうぎゅうと詰まっていたのである。彼の語りはユニークであるが、とても親しみやすいものでもあり、皆が真似をしたがる。けれども実際、真似することはとても難しいことを実感するのだ。

本日これから放映されるNHK教育の「知る楽」のテーマは「反骨人生 時代に背を向けて」となっている。「反骨」という看板を掲げて勧誘活動やらサークル活動、友達ごっこをする風潮はたえて消え去ることはないが、渡さんが全国を廻って伝えていた反骨の姿こそ、そんな風潮とは真逆のものであり、もっとも尊いものと思うものなり。渡さんの歌を歌い、彼について語るときごとに、益々それを実感するのである。

「フォト蔵」に「きらきらファッション」を公開しました

登録したばかりの「フォト蔵」に「きらきらファッション」を公開アップロードしました。とても簡単な手続きで、スライドショーとして見られるので、遅れてきた「フォト蔵」ユーザーとしては少々感激モードに入ってしまいました。

http://photozou.jp/photo/slideshow/306040/1124129

みどり企画の「きらきらファッションショー」でもお馴染みの、衣装デザイナーこときらきら泉さんの手づくりファッションです。オーガニックコットン、日本の古布、インドのワイルド・シルクなどの自然素材を使って、大変魅力的な衣装がデザインされています。

現在のホームページに続く第2弾として撮影されていたものの、みどり企画HPでは長らくお蔵入りにされていた貴重な写真たちです。モデルは神田さおりさん。この機会にぜひご鑑賞ください。

http://www.midori-kikaku.com/kirakira/

ちなみに、よしこさんが作成した公式ホームページ「きらきら泉…at Works」はこちらです。同じ写真が使用されています。どちらもおいらの撮影です。

http://www4.ocn.ne.jp/~xaba/index.htm

高田渡の特集番組、4週連続放映中

高田さんは吉祥寺の愛酒会の人気者であった。

NHK教育の「知る楽」では、高田渡の特集番組が4週連続で放映中である。先週の第1回放映を見逃していたので、本日は早朝目覚ましで起き、5時35分からの再放送番組を視聴した。「随想 吉祥寺の森から」の杉本さんより番組情報を提供していただいていた。

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/52082820.html

第1回放映では、高田渡さんの少年時代にスポットが当てられていた。裕福だった岐阜での幼少期とは裏腹に、破産して東京に逃れ着いてからの一家の生活は、とても苦しいものであった。飯場の労働者たちと接しながら育った渡さんのの少年時代の環境が、彼の音楽性に甚大な影響を与えていたことは想像に難くない。

高田渡さんと云えば、かつておいらが西荻窪の「ほびっと村」にて二人写真展を行った際、祭りのライブ会場で渡さんを撮影した写真の展示許可をもらうことやご挨拶などから、彼の住む吉祥寺を訪ねたことがある。南口改札前で待ち合わせた渡さんは、とても静かに現れて、とても想い出深い面会となった訳である。かねてからの行きつけであるハーモニカ横丁でのお付き合いを願い出たところ快く応じてくれたのである。ビール、焼酎と杯を重ねながら、奥さんが写真関係の仕事をしていて渡さんも写真に関心が深いことや、息子さんのことなど、とても熱っぽく語ってくれたことを昨日のことのように思い出すのだ。その日はおいらも少々深酒してしまい、帰宅するなり妻にじっくり叱られたという、ほろ苦い想い出もあったりするのである。

本日はこれから、第2回目の放映がある。テーマは「“日本語フォーク”の先駆者 」となっている。フォークシンガーの中でもとても異色であった彼の音楽が生み出された背景や必然や、その他諸々のドラマが展開されるだろうと期待しているところである。

私はいつも都会をもとめる[西荻窪「ほびっと村」編]

途中下車して駆け込んでみる酒場の光景も悪くない。通りすがりの者ですがと、注文しながらやり取りする会話が盛り上がることもあれば、他所者扱いされて白けるケースも少なくない。地元意識が強い小さな駅前の一杯飲み屋などには、その傾向が強いだろう。中央線沿線の「西荻窪」などはその典型だろうか?

今宵はふと、探検家気分になり、西荻窪にて途中下車してみたのであります。西荻窪と云えば、南口を降りて徒歩3~4分のところには「ほびっと村」というユニークなカルチャー施設がある。1階は自然食栽培にこだわった八百屋である。2階が食事処である。そして3階は本屋とイベントスペースで占められている。本屋といえどもここには、どこにでも売っている種類の本はほとんど置いていない。独特な品揃えが特徴のオンリーワン書店である。かつてこの書店にて「とろん」の本を購入したことがあった。そしてとろんの口利きで写真展を開いたこともあった。

http://www.nabra.co.jp/hobbit/hobbit_mura.htm

もう10年も昔の話になるが、この施設の踊り場スペースを借り切って、彼女と二人展を開いたことがあったのである。展覧会タイトルは確か、「祭りで出遭ったアーティストたち」。とろん、きらきら、高田渡、花&フェノミナン、エトセトラのアーティストたちを撮影した写真を展示したのだが、初日のオープニングパーティーには、2階の食事処を埋め尽くすくらい大勢の参加者でごった返したという想い出がよみがえってくる。オープニングパーティー後のアキンと某同窓生との二次会では、西荻駅前の赤提灯酒場で酒を喰らい、酔ってトイレに出たが最後は迷い続けてしまい、手荷物も置いたままほうほうの体で自宅に彷徨い帰ったという苦々しい想い出も、ぎゅうぎゅうに詰まっているところなのである。ちなみにおいらにとっては大切だった手荷物を、わざわざタクシーで遠回りして届けてくれたのは、アキンではなく某同窓生であった。感謝、多謝、謝謝なのである。

フランス大使館の「NO MAN’S LAND」は大賑わい

フランス大使館旧庁舎にて去年末から続いているアートの祭典「NO MAN’S LAND」を再訪した。前回は陽が落ちた後の時間帯に訪問したので、昼の展示会場をぜひ見たいと思っていたのだ。

http://www.ambafrance-jp.org/nomansland

会場に着いたらびっくり。入場制限が出来るほどの大賑わい、大人気である。200名かそれ以上並んでいただろうか、長蛇の列なのである。前回は暗くて気付かなかった会場入口に設置されたダンボール製の門を潜る。ハッポースチロール等の素材を駆使したオブジェで混沌を表現した、ジャン・デュビュッフェを彷彿とさせるが、スケールはこちらのほうが上であろう。コンコンと門を叩くと、ダンボールの軽くてスカスカの質感が応えるのだ。そのギャップが面白い。

30分くらい並んだだろうか、やっと門を潜ると手前の棟はパスして正面奥の本棟へと向かう。前回は制作途中で進行が気になっていた作家の部屋を覗く。イメージさせるアートが、室内の壁全体に広がっている。都会を女子大生風のギャルたちがさかんに感心している光景が目に付く。こんな展示に接すること自体がまれな経験なのだろう。旧大使館の事務室、廊下、階段、踊り場など、いたる場所がアートの空間となっているのだ。

著名な建築家、ジョゼフ・ベルモンの設計による旧庁舎は、今月末までのイベントを終えると取り壊される。設計者にとっても大変満足なイベントとなったことであろう。日本のアーティスト、アート関係者もこのイベントの成功に見習いたいものである。

「渋谷」繋がりで、佐津川愛美のDVD鑑賞

藤原新也さん原作の「渋谷」を観て感動したおいらは、綾野剛とともに主役を演じた佐津川愛美さんが過去に出演していた映画のDVD「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」をレンタルして鑑賞していたのでした。

まだまだ初々しかった愛美さんは、東京に憧れる漫画家の卵の役を演じていた。眼鏡が似合うその姿は、萌え系のアイドル予備軍と云っても過言ではなさそうであった。物語は自我が肥大した女主人公の売れない元女優が田舎に帰省してからのはちゃめちゃコメディーを軸にして展開していくのだが、そんな中で主人公の妹役の愛美さんは、凛として漫画作家の王道を歩もうとする姿が、これまた共感を呼ぶのである。漫画家の描く真実は家族の馬鹿げた日常をも素材にしてしまうのかと、見方によっては非難されそうな姿ではあるが、愛美さんの演じたその姿は、はちゃめちゃな物語を凛として通り過ぎるていく。それはまさに一条の光のように敢然として貫くのである。

この映画の原作者本谷有希子は、過去には芥川賞候補になったこともある実力派であり、さらにはかの松尾スズキの弟子であったこともあるという。なんというこの繋がりの密さは! おかげでおいらは、本谷有希子さんの原作本をアマゾンにて注文してしまったという訳なのだ。

オリンパスペンE-P1の使用感は○

行きつけの居酒屋のマスターが、「今度、オリンパスペンで撮影した写真を見せて下さいよ」というので、A4サイズにプリントしてみました。オリンパスのデジカメ「ペンE-P1」で出された料理を撮影したことから、マスターも関心を寄せているのだ。最新のデジタル機器だけあり、この程度の引き伸ばしでも解像度は充分に対応している。それ以上に嬉しく感じたのが、ピントの良さである。カメラの基本はレンズなりという古典的なセオリーを、ここでまた再確認することになったのだ。

このペンを購入する前に使っていたのが、リコーの「GX100」である。この機種と比較すれば瞭然なのだが、「ペンE-P1」の方は、ピントの山がはっきりつかめるのである。ここが使い始めてからこれまで、ずっと気に入っていた大きな理由である。ちなみにおいらはカメラの「オートフォーカス」を信用していないので、できる限りマニュアルでピントを合わせて撮影している。このマニュアル撮影の勘を取り戻してくれたのも「ペンE-P1」だった。

引き合いに出してしまったリコーの「GX100」にもひと言触れておこう。こちらもリコーの「GR」「GXR」などとともに人気の機種である。とくに「GR」のほうは広角スナップに適したシャープなレンズ描写が売りとなっていて、確かにその描写力はコンパクトデジカメの多機種を圧倒している。「GX100」のほうはそれにズーム機能を持たせたいわば折衷版という捉え方もできよう。だがおいらはここで主張したいのだが、「カメラに振り回される撮影に、何の価値など有りや?」と。「GR」で撮ったとされる写真のほとんどが、確かにシャープで心地よい調べを奏でているのだが、どれもが同様のテイストしか感じさせないのだ。これはおいらにとってはまことに看過しがたい点だったのである。

常時携帯カメラにとって、ズーム機能は必須と思われ。

藤原新也原作の映画「渋谷」を鑑賞

昨夜、渋谷の「ユーロスペース」という映画館で「渋谷」(藤原新也原作)を鑑賞した。メジャー系の映画と違い、製作費用も最小限のものだったという同作品は、1日1回、しかも夜間のレイトショーという不遇な扱いを受けている。だからファンにとってはそれだけ格別な思い入れ、気合が入るものなのだ。初日(9日)に観に行く予定でいたが、チケット完売とのことで当てが外れた。この日は藤原新也さんをはじめ監督、主演俳優らの舞台挨拶があった。やはり新也さんに久しぶりに会いたかった。惜しいことをしたものである。

西谷真一監督による「渋谷」のストーリーは、当然のことながら原作にかなりの手が加えられている。一遍の物語として仕上げなければならないムービーというものの宿命なのだろうが、細かなところまで目を行き届かせている(こういうのを被写体の機微というのだろう)あの原作を、もっと活かせなかったものかと、いささか残念に思う。

主役の若手カメラマンを演じた綾野剛はミュージシャンの顔も持っているらしい。初々しくシャイな感性を存分に発揮している。ただ突っ込みどころは沢山あった。例えば「これが俺の全財産の半分だから」と云って少女(相手役の佐津川愛美とは別の少女)に1万円を手渡すのだが、彼が使用している写真機材その他が豪華なことをみれば、とても納得がいかない。エプソン製の高級デジカメにライカのレンズ、最新のマッキントッシュにプロ用ソフトウェア、そして渋谷に構える事務所兼用の自宅…等々。これらを揃えるとなったら、簡単に百万円はかかるだろう。

まあそんな滑稽な矛盾点をチェックしていくのも、映画の楽しみの一つである。

いつもより早い年賀状を書いた

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毎年毎年、年賀状を出すのは25日を過ぎて大晦日間際と相場が決まっていたのだが、今年はちょうど良い休日があったので、早々と年賀状作りに取り組むことができたのでした。

とはいっても一寸した問題発生。このところ数ヶ月使っていなかったプリンタを動かしたところ、印刷途中からイエローインクが切れてしまい、赤青調のへんてこりんな年賀状となってしまったのだ。最初の見本刷りでは調子良かったんだが、数十枚印刷している途中から色味が変わってしまったものなり。インク切れの警告を無視した失態であります。

へんてこりんな色味の年賀状は誰に出そうなどと思案しながら、表の住所を書き終えた。色に拘りなさそうな人や色おんちの人に、外れはがきの宛名書きである。これから町に出て交換インクを買ってこよう。

フランスの文化に対する考現学

代官山の「COLORS」は終わってしまったが、フランス大使館ビルのアート展示会は来年1月末まで続く。昨日は時間もなかったことで詳細やら何やらについて触れることが出来なかったので、改めてこんばんはこの稀有な展示会について紹介していきたいと思うのである。

入場料は無料である。だから少なからずに興味関心を持った人ならば絶対に訪れるべしなのである。ただし、入場の受付にて100円也のガイドブックの購入を薦められる。これは素直に購入したほうが良い。おいらもこのガイドブックの有り難味は身に染みたのだ。それからはもう見たい放題、写真に撮っても全然お構いなしなのである。おいらのように未だに実験写真に興味津々のものにとってはこれはすこぶる有難い。そのガイドブックの表紙には「創造と破壊@フランス大使館 最初で最後の一般公開」との文字が躍っている。たしかにコンセプトの意義をまんいつさせた空気が会場のあちらこちらで散見されるのである。おいらがもし仮の話でキャッチコピーを担当したとなれば、たぶんこの順序を逆にして「破壊と創造@」などというものを提示してしまったのだろう。おフランスさんの文化には、このような順序が似合わないことをここで改めて認識させられたというわけなのである。

我が国日本にとってみれば、予定調和というのが文化の基本にあるようであるが、おフランスにとってそのようなものは文化の邪道である。創造して、破壊させた物語は、決して予定調和にはそぐわないであろうが、それこそがおフランスの心意気なのかもしれないのだ。我々島国の日本国民にとって、それは重くのしかかった文化の扉を開くことの大切さを暗示してもいるのだ。日本に閉じこもっていたらば何も創造できないばかりか破壊もままならぬ。そんなこんなを感じた昨日の展示会也。

日本とフランスとその他の國の気鋭作家たちが、いわゆるレヴィストロースのブリコラージュし合う、実験場の趣である。作家たちはまるでレヴィストロースの子供たちのように振る舞っているように見えてならないのである。レヴィストロース先生は、こと文化人類学のジャンルにとどまらずに、予定調和的な近代主義に対して大いなる創造的心意気にてノンを延べつつ、未来に対して熱く語っていた。それを忘れてはいないのである。

心躍らせるアートに遭遇

代官山で「COLORS」という企画展覧会が開催されている。(12/1~12/6) 旧知のアーティスト、サバコさんから案内葉書をもらっていたので久しぶりに代官山へと足を運んだのでありました。

神話的モニュメントを想起させるサバコさんの新作。

神話的モニュメントを想起させるサバコさんの新作。

お洒落な代官山にあってさらに人目を引く現代建築「ヒルサイドフォーラム」という建築物の内に、大きくスペースをとった展覧会会場が設置されている。よくある公募展会場のような重苦しさはなく、割り当てられた展示スペースに作家がおのおの工夫を凝らして展示を行っていくという参加型のスタイルである。展示作品のほとんどが平面か半立体であったのに対し、サバコさんの作品は立体作品であり、2つめの会場に足を踏み入れたらすぐにそれと判った。これまでにないスタイルの新作であったが、一見してフォルムがサバコ風であり、遠目にも強烈にアピールしてくるものがある。存在感が他の作品を圧倒していたのだ。アフリカの土着絵画や神話的イメージを連想させるが、プラスαこそがサバコ風なのであった。今回の作品は実用的な家具(椅子)として利用が可能であり、どっしりと黒光りするさまが特徴的である。はじめ木材家具だろうと思っていたのだが、話を聞くにつれ、素材がプラスチックの一種であることを知った。やはり家具ではなくアートだったのである。少しばかり座らせてもらったりもしたのだ。こんな家具ならぬアートと暮らしたら、さぞ毎日ウキウキするだろうなあ。

久々の昔話にも花が咲いたのだが、近くの広尾のフランス大使館にて、ちょうど面白いイベントが開催中という話を聞いて、次はフランス大使館へと向かったのです。一度も踏み入れたことのなかったフランス大使館内を、アートの展示場として一般公開されるとあって、来訪者の姿も多くみられた。こんな機会は滅多にあるものではない。お奨めです。

ミヒャエル・エンデの父子の作品集

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ミヒャエル・エンデの父子の作品集を古書店で見つけて、あわてて買い込んだのでありました。「EDGAR ENDE & MICHAEL ENDE」という、朝日新聞社から出版された美術作品集なり。

エンデ父子といえば、その昔には諸事情にていさかいの日々を送っていたという物語が耳に聞こえてきておりまして、父子の不仲などに興味が集中してしまいましたことあり。でも今日この時にては、おいらにはいささかなりともエンデ父子に対する不純な詮索など全くなく、実に純粋に、読み進めることが出来たのでありました。

はらっぱ祭りで「花&フェノミナン」に酔う

大地をつんざくようなリズムに酔い痴れたのだ。

大地をつんざくようなリズムに酔い痴れたのだ。

毎年この季節になると、小金井の武蔵野公園(通称「くじらやま公園」)でははらっぱ祭りが開催されている。今日は数年ぶりにその祭りに足を運んだ。

お目当ては「花&フェノミナン」バンドのライブを聴くことである。「花&フェノミナン」の出演予定時間は11時50分ということで、休日の家でのんびりする間もなく会場へ。全国各地のライブハウスや祭り会場にてライブ活動を続けて居ることは、主にインターネット情報等にて把握していたのだが、なかなかそれらの会場に、足を向ける機会も減ってしまっていた。

小金井市くじらやま公園の「はらっぱ祭り」といえば、そもそもその昔に、保谷にある「かけこみ亭」に「花&フェノミナン」の押しかけ取材を行なっていたおいらが、初めて彼らの本格ライブに接した場所でもあった。いわゆる格別の想い出の場所なのである。当時は会場の裏地に持参したテントを張り、彼女とテントで一夜を過ごしたりしていたものである。わずか十年ほど前の話なのだが、最近は諸事情(地域住民からのクレーム等)により、そんなことも許されなくなってしまったようだ。祭り自体が縮小傾向を余儀なくされてしまっているようでもあり、さびしいことこの上なし。

昼目前の「花&フェノミナン」出演時間となり、手作り感溢れる特設ライブ会場に人がぞろぞろと集まってくる。この時間に会場に来ている来場者の多くは、バンドのボーカル花ちゃんのファンである。長めの前奏曲が響くと会場前に居た花ちゃんが壇上に立ち登り姿を現わす。定番曲「生まれたよ」のスタートである。アフリカ太鼓のジャンベを打ち鳴らし大地のリズムを奏でているのがさっちゃん。いわゆるMCのパートナーでもある。

あたらし目の曲を挟んで、ラストはこれまた定番の「いのちのうた」。さびのフレーズでは会場の全員が全身でリズムをとって盛り上がりをみせる。会場の壇上を降りた花ちゃんは聴衆の間に駆け込むと、そこには巨大な大地がステージとなって、ダンス会場の舞台といった趣なのである。

実況中継を続けても仕方ないのでこのへんでキーボードを置くが、この野生のリズム、ボーカルに呑まれこむような希少な体験は、これからも度々持ちたいとしみじみ思うのである。

巨大な大地を舞台にしたダンス会場。

巨大な大地を舞台にしたダンス会場。

http://www.youtube.com/watch?v=Swa8KMoZJ7E

http://sky.ap.teacup.com/bokurasouko/655.html

銀座のレトロな穴場ギャラリー

これまで銀座のネタはといえば、飲み食いの話題にばかりであったことを反省し、今宵は芸術の秋にも相応しく、画廊の話題など少々。

ビル自体が骨董品である。

ビル自体が骨董品である。

レトロなアコーディオン扉が懐かしいエレベーター

レトロなアコーディオン扉が懐かしいエレベーター

誰が呼んだか「画廊の街銀座」は、犬も歩けば画廊に当たるっちゅうくらいに画廊がひしめきあっている特異な街なのですが、そのほとんどは画商という、得体の知れれないモンスターが仕切っているので、例えば地方から上京したばかりのお上りさんとか、日本観光の最初の日を銀座に訪ねたビジッターさんたちにとっては、格好の鴨となるおそれが大なのであり、ご注意遊ばせなのである。お上りさんの目をしながら画廊に入ったが最後、「お客様、お目が高いです!」というお褒めの言葉に続いてあらゆる高等画商テクニックの実験台にされること必至である。おいらも同様の経験豊富では有るので身につまされること大なのであり、余計なお節介を述べたものなり。

ところで吾輩が銀ブラしながら時々訪ねるスポットに、銀座1丁目の「奥野ビル」があります。一見して時刻が止まってしまうくらいにレトロなビルであり、一度そこに足を踏み入れたことのある人間にとって、そのゾクゾク感を追体験しようとして、何度も足を運ぶことになること必至なり。馬鹿なミーハーどもが集る、かの「メゾンエルメス」なんてものは女子供に任せておけば良いのであります。

レトロなビルに相応しく、大昔の銀座三越に採用されていた、アコーディオン扉のエレベーターに乗って、画廊散策するのはとてもお薦め体験です。人も住む住居が有るというこのビルの中には、十数件の画廊がひしめき合っていて、ゾクゾクとして画廊の扉を開けたときの快感は、他では味わうこと無いものであったと実感している。それくらい貴重な「奥野ビル」。銀ブラしながらゾクゾク感味わえるスポットが、時代とともに減ってしまった。古きものを簡単にぶっ壊す悪しき風潮に「渇!」なのである。

今日は股々、そんなゾクゾク感を期待して同ビルを訪れたのだが、ただし、特別な出会いや発見はなかったのである。残念!

泰明小学校のアートイベント

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今日から11月である。秋本番。この時期11月に入ると寒さが身にしみることをいつの間にか学習するとともに、ここ数年来、おいらがかつて画学生としての時を過ごした多摩美の秋本番の芸術祭に足を運んでいたものだが、今年はひょんなことから多摩美ではなく、中央区銀座の「泰明小学校」を訪れていた。「銀座あおぞらDEアート」と銘打ったアートイベントが催されていたからである。

誰が名付けたか「画廊の街銀座」の、画廊、画商が中心となって企画された、若手のアーティストたちの作品発表の場となっている。銀座の一等地に構える名門小学校だけあり、狭いながらに堂々の佇まいには「天晴れ」の一言。最近は仕事柄、ここ銀座を縄張りにしてきたおいらだが、名にしおう泰明小学校の前を何度も通り過ぎながらも、一歩もそこへ足を踏み入れること叶わなかったこともあってか、まずは泰明小学校のグランドの土を踏んだことの嬉しさ、感慨が込み上げる、何茶って…。

美大生や美大卒業して間もない若手の作品群が、狭い会場を取り巻くように並べられていて、やはり想像以上に目の収穫有り。画廊、画商が関係しているとはいえ作品を売買するといった光景はほとんど見られず、そのぶん打ち解けた、若手アーティストとの自然なふれあいがあり、大変希少な時間を過ごすことができたのでした。

若手の出展者の中には、卵のオブジェを作って販売していた多摩美の後輩女子が居て、重ねて展示されていた卵のオブジェたちの中で、ひときわ輝いていた自筆メッセージ入りの作品を、250円という格安でゆずってもらってすごい満足感やらを味わったのでした。

高田渡「ごあいさつ」についての勘違い

本日、職場の話題豊富な某女史が、ある問題提起していたのである。

「『お世話になっております。』という言葉を、手紙の最初に記したほうが良いのか否か」と…。おいらもその時には、「それはコミュニケーションを丸く収める言葉遣いだから、書いたほうが宜しいのだ」というようなことを述べたのだった。そして付け加えたのが、高田渡さんの名曲『ごあいさつ』についての解説である。

「高田渡の名曲『ごあいさつ』にも、『どうもどうもいやどうも』といって、コミュニケーションを丸く収める様子があるじゃないか、云々かんぬん」…と。

だが先ほど帰宅して、「ごあいさつ」を聞き直していると、大きな思い違いをしていたことが判明して、些かおいらもバツの悪い状況なのである。

takada-2

♪どうもどうもいやどうも
 いつぞやいろいろこのたびはまた
 まあまあひとつまあひとつ
 そんなわけでなにぶんよろしく
 なにのほうはいずれなにして
 そのせつゆっくりいやどうも

この「ごあいさつ」は、バツの悪い相手に対して発せられた、拒絶のボキャブラリーであり、いわば諧謔にも似た響きを奏でているものだ。であるからして、この曲をして「コミュニケーションを丸く収める言葉遣い」といった説明は、全然正しくなかったのである。しかもおいらはこのとき、「ヤフーで『高田渡』と検索してみると、30番目においらのサイトがヒットする。昔は11番だったんだけどね…」などと、自慢話さえしてしまったのだから、始末に負えないのでした。ちなみに今「30番目」くらいのおいらの作ったサイトは、下記のとおりです。

http://www.midori-kikaku.com/artist/takada.html

ちなみに名曲「ごあいさつ」の作詞は、谷川俊太郎さんが手がけております。これまた今日知ってびっくり!